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Vol.01
六甲ラグビーフットボールクラブ、創部45年の挑戦ロード

21世紀は人間の「力」が問われる時代かもしれない。
ビジネスや自己啓発といったジャンルの書籍には、様々な「力」を磨くための指南書が並んでいる。
六甲ラグビーフットボールクラブ(以下六甲クラブ)というチームがある。高校、大学、社会人というピラミッドが競技の土台となる日本ラグビー界において、実に1969年から活動を続けている市民クラブだ。
全国クラブラグビーフットボール大会に19年連続で出場している名門でありながら、彼らを取り巻く競技環境は意外なほど厳しい。それでも、ひたむきにラグビーを愛し、喜びと悲しみをチームメイトと分け合い、対戦相手をリスペクトしてきた六甲クラブの歩みは、不透明な時代を生きる我々へのヒントに溢れている。

1969年、読売サッカークラブと同年に誕生したラグビークラブチーム





ラグビーへの思いを熱く語る六甲クラブOB会会長の中嶋。

日本におけるクラブスポーツの歴史は、1969年に創設された読売サッカークラブが有名だ。Jリーグ開幕のはるか以前に産声をあげたチームは、現Jリーグ2部の『東京ヴェルディ1969』の母体となった。
ほぼときを同じくして、ラグビー界にもクラブチームが誕生したことは、あまり知られていない。それが、兵庫県をホームタウンとする六甲クラブである。
ラグビー界で日本初のクラブチームか否かは、正確なところがはっきりしない。友人同士で楕円球を追いかけ、練習試合などの活動を行なっていれば、クラブチームと言うことはできるからだ。
いずれにせよ、クラブスポーツという文化がほぼ根づいていない時代に、「日本一のクラブチームを作ろう」というひと際高い志を掲げ、規約も整えたうえで活動をスタートさせた六甲クラブの誕生は、日本ラグビー界にとってエポックメイキングな出来事だったと言っていい。
「スタートのメンバーは、超ド素人の私を含めてわずか8名でした」
そう言って笑顔を浮かべるのは、六甲クラブOB会の中嶋光正会長である。23歳だった創部当時の記憶は、いまも鮮度を保っている。
「当時の私は日曜日しか仕事の休みがなく、土曜日は半日出勤だったんです。土曜日の午前中に仕事を終えると、初代キャプテンの日下雄一郎くんとともに走り込みをして、翌日に試合をしていました。うまくグラウンドを確保できたら、試合のあとにも練習をして」
週末ごとに訪れる楕円球との触れ合いを通して、中嶋はラグビーにすっかり魅せられていった。「好きになってしまいましたねえ」と、屈託のない笑顔をのぞかせる。
残業を終えて夜の10時頃に帰宅し、慌ただしく食事をすませて自宅を飛び出す。ランニングをして、腕立て伏せをして、腹筋と背筋に取り組む。20世紀のアスリートなら誰もが経験した、うさぎ飛びにも励んだ。50数キロだった体重は70キロを越え、「スクラムのおかげ」で肉体的な強さも備わっていった。
いまでなければ笑えないエピソードもある。
「首の骨を折りかけているんです。40歳を過ぎた頃だったと思うんですが、健康診断で『クビに大きなケガの跡がある。自然治癒で完治したらしいが、あと2ミリずれていたら折れてましたよ』と言われたんです。そう言えば、ある試合のあとに、歩くたびに激痛が走ったことがあったんです。でも、その試合翌日が東京へ出張だったので、会社は休みませんでした。上司に『ラグビーをやめろ』と言われたくなくて、どんなにケガをしても出勤していました」

ラグビークラブチームの
歴史とともに成長

日本ラグビーのピラミッドは、基本的に高校、大学、社会人の三層によって成り立っている。地域に根ざした各種スポーツクラブの存在意義が認められつつある現在ならともかく、当時はまだクラブという形態へ踏み出すのが難しかった。草ラグビーと呼ばれるような楽しみ方とクラブとの境界線が、見えにくかったのも事実だろう。
中嶋らの創設メンバーが情熱を振り絞る六甲クラブも、何度となく困難に直面した。中嶋が苦笑いをこぼしながら振り返る。
「7、8回は潰れかけました。創部当初は部費が1000円だったのですが、それでも物価からしたらツラい人がいたと思います。お金だけでなく人が集まらないのも、大きな悩みでした。土曜日に練習をすることになっても、3人しか集まれないとか。そういうことがしょっちゅうでした。仕事を持ちながら活動するので、全員が集まることはほぼ不可能でした」
クラブという形態を模索したのは、六甲だけではなかった。新しいクラブがいくつも誕生したが、多くは消滅していった。
「クラブを長続きさせるには、運営資金と高い理想と、新人をリクルートできなければならない」
大学や社会人では起こり得ない問題もあった。長きにわたる伝統がないゆえに、どのようなチームスタイルを標榜するのかという方向性が定まりにくいのだ。
「クラブチームは寄せ集めからスタートするので、軸になるものがないんです。そうすると、自分の出身校にこだわったり、出身校で教えてもらったプレーにこだわったりするので、そこをキャプテンが握ってチームとしての方向性を作らなきゃいけない」
いくつもの難問を抱えながら走り続ける六甲クラブにとって、公式戦で勝つというターゲットが生まれたのは転機となったはずだ。1994年の全国クラブラグビーフットボール大会の創設と、1995年の関西クラブリーグ設立である。
六甲クラブの中でも、トップチームに相当するAスコッドの『六甲シーホークス』が関西クラブAリーグに、Bスコッドの『六甲レッドウイングス』が兵庫県トップリーグに所属することとなった。六甲シーホークスは全国大会に94年度(全国大会開催は95年)から出場し、日本クラブラグビー界の雄としての地位を確立していく。
2年後の1997年には、関東在住メンバーを中心に『六甲イースト』が立ち上げられる。「関西から関東へ転勤した人たちの受け皿」という位置づけで、やがては関東と関西の両クラブが全国大会で覇を競うことを理想に掲げた。
2003年にはNPO法人格を取得し、地域に根ざしたクラブの性格を鮮明に打ち出す。兵庫県下でのラグビースクールやラグビークリニック、障害者と交流を深めるイベントなどを定期的に開催し、地域貢献、地域密着を進めていった。
また、2009年にラグビー部が休部した「ワールド」とのサポート関係を結び、六甲シーホークスを『六甲ファイティングブル』に改名する。ワールドに所属していた選手も受け入れた。
「当時のワールドに、休部するなら我々と一緒にやりませんかとお話しをして、転籍希望された有能な部員を六甲クラブに受け入れをし、資金的なサポートまでしていただくことになりました」

2012年、学生一位の帝京大学と六甲ファイティングブルの一戦。

全国クラブ大会で優勝7回、準優勝6回の古豪となるまでに、幾度かあった崩壊の危機も執行部の努力で乗り切り、立ち直ることができた。 そうしてラグビー界におけるクラブチームの地位も、少しずつ向上して、全国クラブ大会で優勝したチームが、日本選手権へ出場できることになったのである。トップリーグ(社会人)と大学の強豪が集う国内最高峰のトーナメントへの出場権は、クラブもまた日本ラグビーの普及と発展を担うとのシグナルだろう。
とはいえ、六甲クラブを取り巻く環境はなかなか改善されていない。依然として厳しい現実と向き合っている。
「ワールドさんの支援、兵庫県からの補助金などが収入源になっていますが、選手は年間3万円、マネージャーも1万円の部費を払っています。それ以外にもユニホームやグラウンドコートなどを個人で買ってもらうので、選手には過度の負担をかけられません。現役世代はまだ、所得がそれほど多くありませんし」
大会で勝ち上がれば、交通費や宿泊代などがかさむ。好成績を収めるほど、資金繰りが難しくなるのが現状だ。
OB会長の立場から、中嶋が説明する。
「現役選手は試合に勝つために一生懸命なので、細やかながらも後方支援はOB会の仕事だと思っています。遠征前にパーティを開いたり、小口のスポンサーを随時募集したりして活動資金を集めていますが、お金を集める仕組み作りは大きな課題ですね。年間に1000万円以上ないと、クラブとしてまわりにくいです」
全国クラブ大会で優勝7回、同準優勝6回の強豪クラブが、1000万円を捻出するのに苦労する。それが、日本のクラブラグビー界の偽らざる実情なのである。
それまで快活だった中嶋の語り口に、険しさが入り込んだ。
「クラブ事情はどこも厳しいと思いますね……。運営資金だけでなく、NPO法人として活動するための資金も、個人的な出費があります。けれど、そうした活動を継続・発展させるのは、支援を受けるための大前提になる。道のりは険しいですが、とにかく歯を食いしばってラグビー振興のお役に立とうと」

5対115で惨敗



昨年末から今年1月にかけて開催された第20回全国クラブ大会で、六甲ファイティングブルは2年連続6度目の優勝を飾った。北海道バーバリアンズとのクラブラグビー伝統対決となった決勝戦は、49対0の圧勝である。全国1000チームの頂点に立ったチームは、2月2日に日本選手権の1回戦に登場した。
対戦相手は帝京大学だった。前年の日本選手権で、12対83の大敗を喫した大学ラグビー界史上最強とうたわれるチームだ。
“聖地”東京・秩父宮ラグビー場のスタンドに座る中嶋には、ほのかだが確かな期待があった。スコア上は完敗だった前年のゲームを、冷静に分析した結果だった。
「83点取られたわけですが、運悪くウチのエース級の選手がシンビン(退場)になった間に、20数点入れられたんです。そのぶんを差し引いたら失点は50点後半か60点台だった。これは何とかなるかもしれん、と思いました」
ラグビーは番狂わせの少ないスポーツである。ゲームの中盤まで拮抗したスコアで進んでも、最終的には強者が勝利の雄叫びをあげる。フィットネスとメンタルを80分間にわたって高次元で保てるか否かに、この競技の重要なポイントがある。
「フィットネス面では、最後まで頑張りきれたと思います。ただ、帝京の仕上がり具合がケタ外れだった。両チームの選手が入場してきたときに、相手のバックスの身体がウチのフォワードより厚みがあったんですよ(苦笑)。スクラムやパスまわしで、選手たちは過去に経験したことのないレベルの差を感じたはず。それでもフィットネスは最後までもったけれど、試合へ向けたプロセスに歴然とした差があったのでしょう」
六甲クラブは専用のグラウンドを持たない。チーム全体のトレーニングは週末だけで、それさえも全員が集まるのは難しい。平日の自主トレーニングにしても、仕事や接待などとの兼ね合いがある。一方で大学のラグビー部には、専用のグラウンドがある。授業の都合で全体練習に参加できない選手でも自主的にトレーニングできる。個人としてもチームとしても、絶対的な練習量に歴然とした開きがあるのだ。
2年連続の対戦となった今年は、昨年以上の大敗を喫した。5対115というスコアは、そのまま両チームの競技環境を表わしていたと言っていい。
だが、次年度へ希望をつないだ一戦でもある。中嶋が張りのある声をあげた。
「最後の最後にノーサイドのフォーンがなっているときに、あきらめることなくフォワード、バックスが一丸となってトライをあげたんですね。これは価値があります。この1トライは、全てのクラブチームに希望を与え、大きな柱になる価値あるトライでした」
練習時間が限られている。専用グラウンドを持たない。チームの強化に注げる資金が十分でない。足りないものをあげたら、それこそいくらでもある。
それでも、選手たちは、スタッフは、いつだって前向きなのだ。楕円形のボールを見れば、身体中から情熱がほとばしる。ないものを憂うのではなく、あるものに感謝する気持ちが、六甲というクラブを力強く支えている。
中嶋の表情にも、力強さが増す。
「クラブの未来図を描く意味では、クラブチャンピオンが日本選手権で学生に大量の点差で負けるのは痛い。結果だけを見れば、全国優勝したクラブなのに不甲斐ない、と思われてしまうでしょうから。けれど、我々のようなクラブが頑張ることで、トップリーグのチームにもクラブのパワーを認識してもらい、なおかつトップリーグに入られなかった大卒選手や、トップリーグで続けられなくなった選手の受け皿になりたい。あるいは、六甲で実力をつけてトップリーグへ引き抜かれるような選手を、継続的に輩出する。そういうサイクルを作り上げたい」

帝京大学との試合(2012年)は、ノーサイドのフォーンがなっている時のトライで、辛くも5対115のゲームに終わる。

イングランド、ウェールズ、フランス、オーストラリア、ニュージーランドといった世界的な強豪は、サッカーと同様にクラブが母体となって代表が編成されている。それこそは、中嶋が思い描く日本ラグビーの未来だ。
「たとえばウェールズは、仕事を持つビジネスマンが自主的にトレーニングをして、代表に選ばれたりしている。そうなると、選択肢のひとつとしてクラブリーグが意味を持つ。学生、トップリーグ、クラブの三位一体で日本代表が編成されるようになるのが、我々の理想です。ただ、われわれの目標は大学王者からの勝利だったので、2013年4月の日本ラグビー協会の発表でクラブ枠廃止が決定してしまったのは残念なのですが……」
3月に新キャプテンを選出した六甲クラブは、すでに新シーズンへ向けて動き出している。「全日本選手権の1回戦で、学生王者から勝利を奪う」というのが、今シーズンも彼らの合言葉となる。
ユニホームの左胸に刻まれたエンブレムに、選手たちは妥協も打算も排除した毎日を誓う。「クラブチームの存在意義を示す」という使命感が、クラブラガーメンとしての誇りを磨き上げている。

Data

六甲ラグビーフットボールクラブ
http://www.rokkorugby.com/

 

Profile

中嶋光正
六甲ラグビーフットボールクラブOB会会長。1987年までクラブ現役。

なかじまみつまさ。1945年生まれ、島根県出生。1969年大阪株式会社入社。同年六甲クラブ創部。1973年内田洋行に転籍 専務で退職。1998年株式会社プラスに常務として転籍後QDS事業部(Biznet株式会社の前身)を創業、2000年新ビジネスモデルとして分社、社長に就任。2005年JASDAQ上場を果す。
2007年プラス本社帰任 オフィス家具事業のプレジデントとして黒字化 2011年 株式会社プレステージ・インターナショナルに転籍 2部上場へ支援完了。2013年同社を卒業後現在(株)増田屋コーポレイション統括本部長として従事。

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